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グランドマスター中井祐樹先生の凄さ
名古屋インストラクター五十里です。
中井祐樹先生に最初にお会いしたのは僕がまだ総合格闘技の道場を探していた段階の頃でした。
二十歳なりたての頃だったと思います。
当時は桜庭和志選手の活躍でPRIDEブーム真っ只中。
とは言え、さあ総合格闘技を身近な環境で始めようとしてもそんな簡単な時代では有りませんでした。
今のご時世なら都市部の中規模繫華街エリアや地方でも主要市町村で総合格闘技の看板を掲げる道場は相当数有ることでしょう。
総合格闘技道場の絶対数の分母が劇的に少ないうえに、それを探すツールも乏しかった。
スマホなど世に出る前の自宅デスクトップパソコンを電話回線でピーヒョロロと繋ぐ時代。
佐藤ルミナ選手や桜井マッハ速人選手など当時スタイリッシュで強いプロ修斗の選手に憧れて向ヶ丘遊園の木口道場に勇んで向かったり…、行ったら休館日という悲しみでしたが。
当時は前述の通りスマホなど無くgogleナビなどこの世には存在しなかった。
今思うとどうやって辿り着いたかも分からない手探りで、総合格闘技への情熱だけで道場行脚を続けていました。
そんな中で踏み入れた江古田の地。
今や日本有数の柔術&格闘技ネットワークを誇るパラエストラ東京本部は環七近くのフラメンコ教室が入った雑居ビルの地下に有りました。
パラエストラの名に触れたのはWEB情報などでは無く、プロフェッショナル修斗1999ベストバウトのVHSビデオの巻末にオフィシャルジムの1つとして紹介されていたのです。
そこで初めてお会いした中井祐樹先生。
初めてお会いしたのに初めてお会いする気がしない不思議な感覚でした。
先生の物腰の柔らかさがそう思わせたのか、でも単なる親近感とは違う。
ただの優しい御仁では無い事を示すのはゴリゴリのカリフラワーイヤーで容易に察知出来ましたけど。
その後、四半世紀の時間を経ていく中の現在に至るまで、私自身と先生の関わりが続いていく既視感だったんでしょうか。
結局、私が入会した道場は当時の住まいから近かった広尾に有ったパンクラスが運営するアマチュアクラス、P’s LAB(ピーズラボ)でした。ピーズラボ東京の情報を得たのはバイト先のコンビニで偶然見かけた東京スポーツの誌面広告だったという、これまたネット社会前夜らしいキッカケでしたね。
万が一、ピーズラボ東京では無くパラエストラ東京本部に入会していたのなら山口徹さんとの出会いは25年早く実現していたのかもしれませんね。
数奇な運命というのは繋がり続け、ピーズラボ東京入会間も無く、1人の若手パンクラシストと仲良くさせて頂くようになりました。
彼は後に戦極というBIGプロモーションのMMAの舞台で五味隆典選手を破ってベルトを手にする事になります。更にDEEPでは5度の王座防衛を果たして日本のMMAライト級を代表する選手となります。
北岡悟選手。
入門組のパンクラシストの中ではアマチュア会員と交流が深かった選手の1人で、ピーズラボ会員が出場するどんな小さな草大会にでも足を運んでサポートしてくれた人でした。
実は北岡さんがパンクラスの寮を出るタイミングで僕はもう1人のピーズラボ会員と一緒に3人で共同生活を送った事が有りました。
彼も後にZSTのトーナメントを制し、僕より1年早くパンクラスのネオブラッドトーナメントのタイトルを掴む事になります。
植村ジャック龍介。
彼も僕も北岡さんの薫陶を受け、数々のアマチュア大会でサポートを受けてプロの舞台まで引っ張りあげて貰った事は言うまでも有りません。
またいつもの余談が過ぎてしまいそうですが、ジャックがいつも格通の柔術大会取材記事で大暴れしていたアマゾン先生を見つけて『また優勝してますよ、この人』と驚嘆の溜め息を漏らしてたのを昨日のように憶えてます。
僕もジャックもプロデビュー後に北岡さんからお誘い頂き、パラエストラ東京本部のプロノーギグラップリング練習に参加させて頂けるようになりました。北岡悟さんはパンクラス入門前にパラエストラ東京本部に所属していたという御縁が有ったからです。
しかし錚々たるメンバーでした。
毎回、パラエストラ東京本部の地下道場への階段を降りて行く時は13階段を降りていくような緊張感が有りましたし、入り口の扉を叩く前に自分の頬を叩いて一人喝を注入してた覚えが有ります。
入って間も無くの青木真也さん、山下志功さん、八隅孝平さん、上田将勝さん、そして今は鬼籍に名を連ねてしまった吉岡大さんと佐々幸範さんも当時いらっしゃってました。
特に吉岡大さんは練習中に全身汗だくにずぶ濡れになりながらも水を一滴も飲まない。
ストイックな練習をされているのだなと感心していたのですが、練習後に寄った環七沿いのコンビニの目の前である日バッタリ吉岡さんにお会いする事が有りました。
手には缶酎ハイ。
『僕、この一杯の為に練習中も水摂らないんですよ』
幸せそうに相好を崩す吉岡さんの微笑ましいエピソードを思い出すのはカルペディエムHOPEに置いてある吉岡さん佐々さんが表紙の雑誌を見る度々です。
パラエストラ東京練習を通じて交流させて頂いた八隅孝平さんとは同い年という事も有り、何だか気心も知れて互いの独身時代から随分と仲良くさせて貰いました。
僕がプロMMAを引退して、でもライフワークとして格闘技、どちらかというとグラップリングは続けて行きたいなぁと八隅さんに相談させて貰った事が有ります。特にプロMMA時代に中断してた柔術も再開したくなり、八隅さんが独立されて始めたロータス世田谷に通わせて貰う事になりました。『五十里さん、柔術は生涯スポーツですよ』と八隅さんから声掛けて貰った僕が45歳の齢を超えても続けてる今、そしてそれが生業となった現状に改めてその言葉を噛み締めさせて貰ってます。
プロMMAの師匠が北岡悟、そのプロMMAを引退してライフワークとして再開したブラジリアン柔術の師匠が八隅孝平、の両名。その御二方の師匠が中井祐樹先生だから、中井先生は僕にとってのグランドマスターにあたるわけです。
でもパラエストラ東京にお伺いしていた頃には実際に中井先生と直接スパーリングを組ませて貰った事は有りませんでした。
それが実現したのはその頃から十数年経た場所は石川県。私が地元の富山県の実家に出戻ってた頃、偶然スマホを弄ってた時にTwitterのタイムラインにアップされてた中井祐樹先生の練習会の告知でした。
地元に失意の理由で出戻って、まさかもう2度とお会いする事は無いだろうと思われた中井祐樹先生にお会いする事が出来るのかと思っただけでも胸の高鳴りが止みませんでした。…しかし前日は記録的な豪雪で石川県との県境は高速は通行止め。状況によっては諦めざるを得なかったのですが、天に祈りが通じたのか北陸道は前面通行再開、無事会場の石川県白山市に到着出来ました。
10年越しに初めて直接組ませて貰った中井先生はとっても強かったです。ジリジリとマウントドミネートされ、エゼキエルチョークでタップアウト。
当時、既に50の齢前後くらいのお歳だったと記憶するのですが、30代半ばの僕はとっても歯が立ちませんでした。
聞けばその当時にもUFCクラスの選手とも日常的にスパーリングを組み、ざらにタップアウトを奪っていたらしいという話を聞いて納得しました。
『請われりゃ何処でも行くよ、何より俺が練習したいから(笑)』と先生が仰ってた言葉が印象的に頭に残っていて。いつか自分がイベンターとして主催してセミナー練習会を企画したいと思ったのです。遠い未来に思ってたその夢はまさかの次の年には実現の陽の目を見たのです。
何と地元、富山県東部の黒部市で中井祐樹先生のセミナー練習会を開催する運びになりました。
私の呼び掛けで県内、近県の道場の垣根を越えた皆さんが集まってくれました。
UFCレベルの選手向けに胸を貸せる実力が有りながら、かと思えば超初心者の女性&キッズ向けにも分かり易く同じ目線の高さで教えることも先生の懐の深さだと同時に感じました。
実際に地元の空手道場の先輩方は全くの柔術未経験者で『中井祐樹が来るのか⁉』とUWF世代のミーハー丸出しでセミナー受けてたのですが、実に楽しそうに受講してたのが印象的でした。
中井祐樹先生という大きなカリスマの媒介を通じて普段中々有り得ない交流が生まれるのは本当に嬉しかったし、柔術を通じて草の根の地域活性にも繋がる気がしました。
その後、愛知県に拠点を移した際にも中井先生のイベント誘致の御連絡に呼応して半田市でイベント開催し、名古屋駅から半田市の青山武道館に向かう私の送迎の自家用車の中で私の妻も紹介させて頂きました。
私の人生の節目節目で先生とお会いして近況をお話しさせて貰う。
中井祐樹先生とお会いする時は何故か不思議と人生のマイルストーンみたいな特別な瞬間になるのです。
さて、僕が柔術を生業として踏み出した今。
先生に再びカルペディエムHOPEでお会い出来るのが本当に楽しみです。